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一夜分の歴史

 
その夜は雨が、泣くように降っていました。
瓦はバリバリ、煎餅かなんぞのように、
割れ易いものの音を立てていました。
梅の樹に溜った雨滴(しずく)は、風が襲(おそ)うと、
他の樹々のよりも荒っぽい音で、
庭土の上に落ちていました。
コーヒーに少し砂糖を多い目に入れ、
ゆっくりと掻き混ぜて、さてと私は飲むのでありました。

と、そのような一夜が在ったということ、
明らかにそれは私の境涯(きょうがい)の或る一頁(いちページ)であり、
それを記憶するものはただこの私だけであり、
その私も、やがては死んでゆくということ、
それは分り切ったことながら、また驚くべきことであり、
而(しか)も驚いたって何の足しにもならぬということ……
――雨は、泣くように降っていました。
梅の樹に溜った雨滴(しずく)は、他の樹々に溜ったのよりも、
風が吹くたび、荒っぽい音を立てて落ちていました。
 

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ひとくちメモ

「一夜分の歴史」も

草稿は現存せず

「文芸」昭和12年(1937年)12月号に

遺稿として死後発表されたものだけが残り

この印刷物が底本とされる作品です。

「文芸」に使用した草稿は

印刷終了後に散逸するなど

さまざまなエピソードがあります。

制作は

昭和11年(1936年)5月頃と推定されていますが

死後初出にいたる複雑な経緯などがあり

断定できるものではありません。

詩の内容は

雨の降るある夜

梅の木にたまった滴に風が吹いて

ボタボタと庭の土に落ちるのを聞きながら(見ながら)

詩人は

いつもより砂糖を多めにいれて

コーヒーを飲んだのですが

その夜のことを

と、そのやうな一夜が在つたといふこと、 

明らかにそれは私の境涯の或る一頁であり、 

それを記憶するものはただこの私だけであり、 

その私も、やがては死んでゆくといふこと、 

それは分り切つたことながら、また驚くべきことであり、 

而(しか)も驚いたつて何の足しにもならぬといふこと……

――と、「一夜分の歴史」として

思索するものです。

このくだりに出会って

すぐさま

「曇った秋」の第3連を思い出し

とりわけ

その第5連

まことに印象の鮮明といふこと 

我等の記臆、謂(い)はば我々の命の足跡が 

あんまりまざまざとしてゐるといふことは 

いつたいどういふことなのであらうか

――を思い出します。

この時期

詩人は

ある過去の出来事の一場面が

まざまざとよみがえり

それが近い過去ではなおさら

遠い過去では

手に届きもしないことだけれど同じことだ、と

「雲」では歌います。

しきりに

過去のある一日や一瞬をクローズアップし

この「一夜分の歴史」のように

鮮やかな過去の一瞬が

私だけのもの

私だけに記憶されているものであり

その私はやがては

この世から消えてなくなる存在であり

そんなことは分かりきったことでありながら

考えれば考えるほど

驚くべきことで……

誠に

「死」とはとらえがたいもので

この目でしかと見ることができないもので

しかし驚いていてもはじまらないもので

……

と、永遠に答えの出ない問いを問う間も

風は吹き

梅の木にたまった滴を

地面に叩きつけているのです。

 

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