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夜半の嵐

 
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらえて
あどけなき、吾子(あこ)をしみればせぐくまる
おもいをするよ、今日このごろ。

人のなさけの冷たくて、
真(しん)はまことに響きなく……
松吹く風よ、寒い夜の
汝(なれ)より悲しきものはなし。

酔覚(よいざ)めの、寝覚めかなしくまずきこゆ
汝より悲しきものはなし。
口渇くとて起出でて
水をのみ、渇きとまるとみるほどに
吹き寄する風よ、寒い夜の

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし
 

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ひとくちメモ

「夜半の嵐」は

昭和10年(1935年)後半~同11年(1936年)前半、

と制作日の推定幅を大きくとられた作品で

実際、1936年に入っての作品であるか否かは

断定できません。

中也29歳(4月29日誕生日)の

年譜を見ておきます。

昭和11年(1936) 29歳

「四季」「文学界」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。

1月「含羞(はじらひ)」、6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、7月「曇天」など。

春、文也を連れて動物園に行く。

6月「ランボウ詩抄」を山本書店より刊行。

7月、親子三人で「東洋ハーゲンベック大サーカス館」のサーカスを上野に観に行く。

秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で日本放送協会への入社話があり面接を受ける。

11月10日、文也死去する。死因は小児結核。戒名は文空童子。悲痛甚だしく、忌明けの12月28日まで毎日僧侶を読んで読経してもらう。「文也の一生」を日記に書く。

12月15日、次男愛雅(よしまさ)生まれる。このころ、「夏の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を制作。神経衰弱が昂じる。

眼に入れても痛くはない

というほどに可愛がった長男文也が

この年の11月、突然、亡くなります。

詩人は悲痛とたたかうものの

力尽きたかのようにして

翌1937年10月22日に死亡します。

1936年の年明けに

詩人は

こんな風な悲劇が起こることを

まして自分が死んでしまうなんてことを

夢にだに思っていませんが

「死を想う」ことは

詩人の仕事でもあり

「生と死」は常にテーマでしたし

悲しみの由(よ)って来たる根源に

たえず「死」はありますから

「死」は

たびたび歌われもしました。

「夜半の嵐」にも

「死の予感」、

「死の予兆」が現れます。

1年前の昭和10年(1935年)4月24日制作の

「大島行葵丸にて」で

甲板から海に向って吐かれた唾(つばき)は

すでに

結核性の病の進行を物語るものだったのでしょうか

それより少し前の

同年3月には

長門峡への小旅行の帰途

汽車の中で吐血した詩人でした。

最終行

それ、死の期(とき)もかからまし

(それ、死ぬ時もこんなふうであろうか)

――には、突如として

詩の中に「死の期」が現れ

読者は息を飲む衝撃を受けますが

その時を

だれも想像することはできませんから

不安は掻き立てられたままになります。

後になって

このころ詩人の中にあった予感を想像し

その予兆を確認するばかりです。

 

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