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無 題

 
ああ雲はさかしらに笑い
さかしらに笑い
この農夫 愚(おろ)かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと

しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ

すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

心籠(こ)め このこと果(はて)し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋
 

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ひとくちメモ
 
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」を書いた詩人にしては
まだ方向の定まっていない
色々な技が試みられている詩で
文語五七調を基調に
ルフランあり
ダダイスムあり
選ばれた言葉は
平明で
わかりやすいようで
わかりにくい
メリハリのないものになりました。
 
平明に歌おうとして
ダダから遠ざかろうとしたものの
最後に
ダダの尻尾を出してしまって
コントロールがきいていない世界。
 
何が歌われているかとなると
鮮明なイマージュが結ばずに
せっかくの文語体が
空回りして
ルフランも精彩がありません。
 
主語は雲。
その雲はさかしらに(小賢しく)笑い
この農夫の愚かなこと
ちっちゃいちっちゃい
エゴイストだ
(などと嘲笑するので)
この農夫はためいきばかりついています
(農夫は詩人でしょうか)
 
そうはいっても結局は
この空の、胸の中は
農夫にも、
遠い家にも
誠意があります
実に誠意があるのです
(雲は空に浮いているのですから)
 
過ぎた日や
胸の疲れや
ビロードの少女をみないほうがよかったのに
(少女は)
腕を上げて、握ったものを
放すんだとさ、地平の裏に
 
心を込めて、このことをやり遂げ
あっちの、白虹(太陽の傘)から
(慎重に)道を選んで
それからよ
ゴミ箱の蓋(開けるのは)
 
昭和2~3年(1927~28年)に
計画された第一詩集の詩篇群は
1、原稿用紙に清書されたもの
2、長谷川泰子に宛てた「愛の詩」として清書されたもの
3、清書されず、破棄するには愛着が残るものとして「ノート1924」の空きページに記されたもの
 
の3グループが推測されていて
「ノート1924」の7篇のほかにも
候補作品がありました。
 
「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
破棄するには愛着が残る作品に属します。
 
捨てがたい魅力を放つ詩で
もう一つ
息を吹きかければ
見違える世界に化けそうな
不思議な詩です。
 
雲と農夫とビロードの少女の物語――と
読めれば
不思議は不思議でなくなるのかもしれません。
 
もしや
ビロードの少女が
長谷川泰子であったらどうなっちゃうか
……。
 
段々
あり得ないことではない
と、思えてきて
そうとなれば
目が覚めて
もう一度
冒頭行へ戻されていきます――。
 
やっぱり
やすやすとは捨てられない
不思議な魅力のある詩です。
 
「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
昭和2―3年(1927―28年)に作られたのですから
ビロードの少女が
長谷川泰子であっても
おかしくはありません。
 
この詩を
雲と農夫とビロードの少女の物語――
と読めれば
 
農夫
ビロードの少女
 
これらが
指し示しているものが
おぼろげに
見えてきますが
 
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに
 
ビロードの少女を見なければよかったものを
(見てしまった)
腕を挙げ
握っていたものを
放すのだと
地平の裏に
 
この3行は
何を言っているのだろうか
見当はついても
はっきりとはしません。
 
遭わないで済めばよかったものを
遭ってしまった
ビロードの少女が
腕をあげて
握っていたものを
地平の裏に
放り投げた、という
握っていたものは何だったのでしょうか。
 
泰子との別れのドラマの中で
詩人は
泰子が何かを放り捨てたのを
見たのでしょうか――。
 
では
雲はだれか
空はだれか
農夫はだれか
そもそも
これらを人間に置き換えてよいものか。
 
なぞは残り
少しは
この詩に近づいたような気になりますが
間違いでしょうか
それも分かりません。
 
さらに最終連の
 
心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋
 
この4行の
 
心を込め
このことを果たした、の主語はだれで
 
あなた(向こうの方)の
白い虹の方より
道を選びに選んで
それからゴミ箱の蓋を開けることになるのは、だれなのか
 
(そもそも、白虹は、「白虹、日を貫く」で有名な「白虹事件(はっこうじけん」と関係があるものか、ないとしたなら、単なる「太陽の暈(かさ)」のことなのか、不吉な事象一般の比喩なのか……)
 
これらの主格が詩人であるとするなら
心を込めて果たした「このこと」とは
何のことか
やっぱり
分かりそうなところまで来ている感じはあるのですが
最後まで
明快な答えの出る詩ではありません。
 
 

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