カテゴリー

« 女給達 | トップページ | 詩人は辛い »

夏の明方年長妓が歌った

       ――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ 
 
 
うたい歩いた揚句(あげく)の果(はて)は
空が白んだ、夏の暁(あけ)だよ
随分(ずいぶん)馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いっさいがっさい)キリガミ細工(ざいく)
銹(さ)び付いたようなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたって森にしたって
みんな怖(お)ず怖ずしがみついてる
夜露(よつゆ)が下(お)りているとこなんぞ
だってま、しおらしいじゃあないの
棄(す)てられた紙や板切(いたき)れだって
あんなに神妙(しんみょう)、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だって
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこっちを見向きもしないで
あんまりいじらしい小娘みたい
あれだって都(みやこ)に連れて帰って
みがきをかければなんとかなろうに
左程々々(そうそう)こっちもかまっちゃられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたい歩いた揚句の果は
空が白んで、夏の暁だと
まるでキリガミ細工じゃないか
昼間は毎日あんなに暑いに
まるでぺちゃんこじゃあないか
 

▶音声ファイル(※クリックすると音が出ます)

<スポンサーリンク>


ひとくちメモ
 
「夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた」は

「小竹の女主人」への献呈詩です。
 
「小竹」とは 
詩人なじみの「待合」の名で
東京・芝浦にあり
「文学界」の書き手や
花園アパートの青山二郎らとともに
よく利用しました。
「ばばあ」は
そこの女将への親しみを込めた呼び方です。
 
初出は
「文学界」の昭和10年9月号で
同年6月6日~7月の制作と推定されています。
 
このころ詩人は日記に
 
朝食がすむと間もなく野田君遊びに来て夕方まで遊ぶ。夜は青山達と銀座に出で、ジルヴェスターにて「作品」の会の二次会に出くわす。それより芝浦に行く。没個性的な奴等。個性がないための一般向きが恰かも人格の力のやうな観を呈する所では、個性といふものは却て物質の如く侘しいものに見えるかも知れぬ。とまれ芸術家社会で、おしやべりが円滑に出来さへすれば重きをなすやうではともかくダラケたことだ。芸術が世間に呑まれてゐるとしたら、例へば羅針盤が運転手に方向を指示させられてゐるといふやうなものではないか。
世間が芸術の師である程なら、芸術とは無用の長物である。
 
などと記しています。
(11月19日)
 
「それより芝浦に行く」の
芝浦に「小竹」はありました。
銀座で飲んで
その後
芝浦へ行き
そこでまた飲み直し
芸者を呼んで遊んだのではなくて
文学論議の続きを延々としたのです。
 
「山羊の歌」の出版元として有名な
野々上慶一は
「お竹」の女将について
「気風のいい人で、我儘勝手な連中を気楽に遊ばせてくれていました」
と回想しています。
(「小林さんとの飲み食い五十年」)
 
小林秀雄
河上徹太郎
青山二郎
中村光夫
大岡昇平
井伏鱒二
三好達治らにまじって
詩人もその座の中にありました。
 
野々上によれば
「いつも七、八人で卓を囲んで、飲んで議論ばかりしていて、揚句は勝手に雑魚寝などして」いたといいますから
詩人は
合間に女将と
冗談を言いあうこともあったのでしょう
なまなかな関係では
「ばばあ」と
なかなか呼べないものです。
 
まるでキリガミ細工ぢやないか
 
は、詩人が
自嘲も込めて
「ばばあ」にも
まただれかれとなく
言い放ってやりたかった
鬱憤(うっぷん)だったのかもしれません。
 
 

<スポンサーリンク>

« 女給達 | トップページ | 詩人は辛い »

生前発表詩篇〜詩篇」カテゴリの記事