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末黒野

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秋の愁嘆

 
ああ、秋が来た
眼に琺瑯(ほうろう)の涙沁(し)む。
ああ、秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おじゃったおじゃった。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゅうりん)に秋がおじゃった。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしゃ)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑えば籾殻(もみがら)かしゃかしゃと、
へちまのようにかすかすの
悪魔の伯父(おじ)さん、おじゃったおじゃった。
 
          (一九二五・一〇・七)
 
 
 
(注)原文には、「かしゃかしゃ」「へちま」に傍点がつけられています。

▶音声ファイル(※クリックすると音が出ます)

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ひとくちメモ

 小林は当時盲腸炎手術のため、入院中であった。富永が「きたない」といって、酸素吸入管を取り去った話を聞き、「富永らしい」といったという。

 この病室に長谷川泰子がいたことから、新しい物語が始まるのである。

 

大岡昇平は「中原中也」の中の

朝の歌」の「富永の死、その前後」 

このように結んで

次の「友情」で

長谷川泰子が中原中也を捨て

小林秀雄の元へと去った事件の

クライマックスへと言及していきますが

ここで「病室」とあるのは

小林秀雄が入院していた東京・京橋の病院のことで

富永太郎が危篤状態になる

11月初旬より少し前の

10月下旬頃のこと

泰子と一緒に行くはずだった大島行きから帰った直後に

盲腸炎になり入院したことを指しています。

このころ

富永太郎の病状は悪化する一方で

その臨終の始終を

克明に記録していたのは

富永の京大の学友、正岡忠三郎で

家族の知らせで急遽上京し

富永の病室に入室できる許可を与えられていましたから

記録を残すことができたのです。

大岡はこれを引用して

富永太郎終焉記として

「富永の死、その前後」に

載せていますが

この正岡が

富永の渋谷・代々木富ヶ谷の実家に

着いたのは11月6日で

「秋の愁嘆」は

(一九二五・一〇・七)の日付をもちますから

この日より

1か月前に制作されたことになります。

この頃の中原中也は

富永の容態を知らないでいましたから

「富永はその後大分よくなりました。もう後は楽に癒るのでせう」などと

正岡宛の書簡に記すほどでした。

富永の死の1か月前に

中原中也は

富永の死を予想だにできなかったのは

富永自身に忌避されていて

小林秀雄からも絶交されていて

危篤状態になった11月初めにも

dadaさんにはないしょ」と

危篤を知って駆けつけた正岡に

筆談で富永が示したことが分かっているほど

富永に関する情報から

隔絶されていたからです。

「秋の愁嘆」が作られたこの頃

まさに「事実は小説より奇なり」という

ことわざのような現実が

詩の外で進行していました――。

当時、この事態の全貌を

俯瞰して見ることができる立場があったなら

ヒチコックの映画を見るような

スリルとサスペンスに満ちた

男女のドラマを見るような思いをしたことでしょう。

緊迫して胸を騒がせる物語が

日々刻々と進行していましたが

全貌を知ることのできたのは

「神」のみのことのはずでした。

ドラマの登場人物は

小林秀雄

長谷川泰子

富永太郎

正岡忠三郎

冨倉徳次郎

中原中也

……

富永太郎が

危篤状態に入る11月初めより

およそ1か月前の10月8日は

「秋の愁嘆」を中原中也が書いた

翌日ということになりますが

この日――。

小林秀雄は

中原中也には知らせないで

長谷川泰子と品川駅で落ち合い

大島へ行く手はずでしたが

泰子は約束の時間に遅れ

小林一人がやむなく出発したのでした。

この日を回想する長谷川泰子の言葉は

昭和49年(1974年)のものながら

なまなましく

また、

泰子という女性の面影が漂い

想像を掻きたてます。

「私は10月のある日の午後1時に、小林と品川駅で落ち合うことにしておりました。その日、中原は朝から出かけていましたから、私は何もいわないで、そのまま出かけようとしたんです。そのとき、ポツリポツリと雨が降ってきて、ちょっと空模様をながめてと思っていると、出かけていた中原が帰って来ました。こうなると、さっさと出にくくなって、しばらく、しばらくと出発を渋っていたんですけど、約束の時間のほうはもっと気になりました。(略)」(「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」 長谷川泰子・述、村上護・編、角川文庫)

このように

長谷川泰子が回想している

10月のある日の前日が

10月7日にあたり

その日に

「秋の愁嘆」を書き

もう少し前に

「ある心の一季節」で

だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。

(中略)

 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁(フチ)をすぐつて歩いた。 

 今日もそれをした。そして今もう夜中が来てゐる。終列車を当てに停車場の待合室にチヨコンと坐つてゐる自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待つてゐるやうに思へる――

などと、歌ったのです。

詩人は

すでに、散歩を強いられていました。

散歩は詩人の好むところではあり

詩を作り、詩を生きる詩人に

命のようなものでありましたから

「私は私の唯一つの仕事である散歩」と記しますが

この詩では、強いられたという響きがともない

散歩は苦行のようでもあります。

詩人は

散歩を

「自由の不快」と同列のものと感じざるを得ず

「友を訪れることを避けた」のです。

中原中也が

この時、

富永太郎による忌避や

小林秀雄からの絶交宣告に

無傷でいられたことは

考えがたいことを示す一節です。

いったい

京都で富永太郎と知り合って以来

このときまで

二人の詩人は何を話してきたのでしょうか。

どんなことを話したのでしょうか。

胸に舞踏の終らぬうちに 

もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。

には、舞踏の興奮がおさまらぬうちに

はやくも冷たい風が吹きはじめ

秋になってしまった、と

夏の思い出の不全感が歌われ

まだ話し足りないのだがなあ

という声が隠れているようですし

蹂躙、へちま、かすかす、悪魔……

詩句化され、現れたのは

詩人を脅かす何か

不吉なものであり

しかし

詩人はめげることはなく

それを道化調に表現しますから

客観化の意志は失われず

冷静なことはあきらかです。

 

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