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冬と孤独と

 
新聞紙の焦げる匂(にお)い
黒い雪と火事の半鐘(はんしょう)――
私が路次(ろじ)の角に立った時小犬が走った
「これを行ったらどんなごみためがめつかるだろう?」
いろはにほへと…………
   

(注)原文には、「ごみため」に傍点がつけられています。

▶音声ファイル(※クリックすると音が出ます)

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ひとくちメモ

「冬と孤独と」は
1924年11月制作と推定されていて
「ノート1924」に記された
ダダ詩の最後の作品です。
 
「ノート1924」にある作品は
ほかに昭和2―3年(1927―28年)制作の
「浮浪歌」以降の詩が残るだけになりますから
「ノート1924」の中の
京都時代の最後の作品ということになります。
 
富永太郎が
京都にやってきたのは
大正13年(1924年)6月30日でした。
 
東京府立一中、二高(現東北大学)以来の学友である
正岡忠三郎を頼って
はじめは正岡の下宿に寄宿したのですが
9月初旬からは
上京区下鴨宮崎町へ転居。
 
いっぽうの中原中也は
10月初旬に
それまで長谷川泰子と住んでいた
北区大将軍西町椿寺の下宿から
上京区中筋通石薬師へと移転しました。
 
両者の下宿はおよそ1キロの距離にあり
この10月を機に
二人の交友は深まりましたが
11月中旬には
冷却しています。
 
「ダダイストとのdégoûtに満ちたamitiéに淫して四十日を徒費した」と、
富永が村井康男宛に送った書簡(11月14日付け)が残ったことで
そのあたりの事情が一部明らかになっているのですが
この日より前の10月11日に
富永は自らの喀血を記しています。
(※dégoûtは「嫌悪」、amitiéは「友情」を意味するフランス語)
 
中原中也は
自己の詩作に有益であると判断した人物に巡り合うと
住まいを変えてまでして
その人物の住居の近辺に引っ越して
交友関係を深めるのを常としましたが
富永太郎もその例外ではありませんでした。
 
その最も濃密な交友期間は
富永に言わせると40日間だったのですが
おそらく
空ける日の1日たりともない
連日の交友だったのでしょう。
病を抱える方が
参ってしまうのは当然過ぎることでした。
しかし
富永の病はこの時
富永自身によって隠されていたので
正岡忠三郎や中原中也は
知りようもありませんでした。
 
12月3日の夜
京都駅を発つ富永を
正岡忠三郎、冨倉徳次郎、中原中也の三人が
見送りました。
 
「冬と孤独と」は
11月制作と推定されていますから
以上の経緯が
反映されているものに違いはありません。
 
いや、制作日が
富永の言う40日を過ぎた日であったと推測すれば
詩人の「冬の孤独」を察することは
困難ではなくなってきます。
 
新聞紙の焦げる匂い
黒い雪
火事の半鐘
……
これらは
不安を表す異なる表現に過ぎません。
詩人の内部に
危急を告げるサイレンの音が
鳴り響いているかのようです。
 
路次の角に立ったとき走り去った小犬は
詩人の孤独そのものです。
あるいは
詩人の形相のただならぬ気配に
小犬までもが逃げ出したということだったのでしょうか。
いやいや
小犬は富永そのものだった可能性すらあります。
 
俺は引き返すわけにはいかないのだ
富永が盛んに語っていた
小林秀雄というヤツにも会ってみたいし
このままでは
ランボーだって生齧(かじ)りのままだ……
 
でも
この道をまっすぐ行ったからといって
ただちに俺の求める詩が
見つかるというものでもあるまいし
俺が俺の詩を作れるというものでもあるまい
いったい
どんなごみためを通らなければならないか
分かったもんではない
 
いろはにこんぺいとう
こんぺいとうはあまーい、か
 
詩人は
ダダを捨てたわけではありません。
ダダ以外の詩を
認めざるを得なかっただけです。
 
「大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」と
「我が詩観」の中の
「詩的履歴書」に記した中原中也でしたが
実際にどんなことを学んだのかを明らかにする一つの例が
「ノート1924」の空いていたページに書かれた
ランボーの翻訳の筆写です。
 
この頃詩人はまだ
フランス語の勉強をはじめていなかったものですから
富永がその一部を口ずさんだであろう
フランス語によるランボーやベルレーヌに
耳をそばだてて聞き入ったに違いありません。
 
詩人はとりあえず
「上田敏詩集」(玄文社)に収められていた
ランボーの日本語訳「酔ひどれ船(未定稿)」を
書き写したのです。
 
ダダイズムの詩から
脱皮を図る決意を固める
小さなきっかけに過ぎなかったかもしれませんが
やがては
ランボーの詩の翻訳に心血を注ぐことになる詩人の
これがランボーとの初対面です。
 
 

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