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かなしみ

 
 白き敷布(しきふ)のかなしさよ夏の朝明け、なお仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆(よくぼ)けというけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくただ沈湎(ちんめん)の一色(いっしょく)に打続(うちつづ)く僕の心は、悲しみ呆(ぼ)けというべきもの。
 人笑い、人は囁(ささや)き、人色々に言うけれど、青い卵か僕の心、何かかわろうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥(いちべつ)を。フリュートよ、汝は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷(ちまた)や物音は、人の言葉は、真白(ましろ)き時計の文字板に、いたずらにわけの分らぬ条を引く。
 半(なか)ば困乱(こんらん)しながらに、瞶(みは)る私の聴官(ちょうかん)よ、泌(し)みるごと物を覚えて、人並(ひとなみ)に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍(あい)の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空(のべそら)の涯(はて)まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとおしくして、はやいかな生計(なりわい)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺(のべ)の草露(くさつゆ)、汝等(なれら)呼ぶ淡き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。
 

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ひとくちメモ

「かなしみ」は
「散文詩四篇」と題して
「幻想」
「郵便局」
「北沢風景」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表されました。
 
制作は昭和11年(1936年)12月中旬と推定され
初稿の制作年月が特定できないのは
ほかの3篇と同様ですが
詩の終わり近くに
 
幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け
 
とある「幼な児」が
長男文也のことであるとすれば
その死以前に
初稿が作られたことが確認できます。
 
(「幼な児」を、長谷川泰子が生んだ演出家・山川幸世との子・茂樹と推測する考え方もあります。そう考えると、初稿の制作日は茂樹が生まれた昭和5年12月以降とさらに限定されてきますが、特定はできません)
 
詩のはじめのほうに出てくる
「悲しみ呆け」=カナシミボケは
そうなると
愛息の死を原因とするものではなく
ある夏の朝の目覚めに
抱かれたより倦怠(けだい)に近い
悲しみということになるようです。
 
「朝の歌」や
「汚れつちまつた悲しみに……」の
倦怠の調べに
連なっている
悲しみの感情です。
 
そうであるからといって
この悲しみが
文也の死による悲しみと
無縁のものであるなどということでもありません。
 
文也の死の直後に
古い草稿の中から
この「かなしみ」を取り出して
そのままか
散文詩の形に整えたか、
ほかの3篇とともに
「四季」に送ったからには
送った現在と
詩作品の現在が
まったく無関係なものではないことをも
明らかにしているはずだからです。
 
「四季」に送稿した直前に
旧稿を改めたか
わずかの推敲を加えただけだったかはわかりませんが
このころを制作日と推定するならば
まさにこのころ
詩人は
文也の死に
詩人としてはじめて向き合い
「文也の一生」を
日記に記したのです。
 
それは
昭和11年12月12日のことです。
 
 

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